震災と私

2020/01/17

7年前の2013年1月17日 Facebook投稿より転記

 

 

――――――――――――――――――

 

あれから18年かぁ。
今日は、多くの人が色々な想いを感じたであろう1日。

私が震災から思い起こすのは2つのこと。

 

1つ目は、みんなの愛と復興のパワー。

震災は酷かったけど、苦しみと悲しみの中、みんなが助け合ってた姿から

多くのことを学びました。

 

看護学生だった私は、夜行バスの中で被災し大阪駅で動けなくなり、

家に辿り着くことができませんでした。
幸いに持ってた同級生名簿から、大阪の友人を探し公衆電話から連絡し、

なんとかそこまで歩いて行き泊めてもらい、何から何までお世話になりました。
本当に、何から何まで。

 

震災急性期を乗り越えた後は『がんばろう神戸』のスローガンを掲げ

、多くの人が悲しみを抱えながらも、前に向かってた姿。


がんばろう神戸Tシャツを着ている人を見るだけで、元気がでました。


何だか、その復興パワーが私の中に流れてきて、震災というとても辛く悲しい現実を通りながらも、
そこからどう生きていくのか、ということを考えさせられた体験でした。
なので、私にとって震災というものの1つの側面は、未来へ向かうポジティブなものです。

 

 

そして2つ目に思い起こすことは、自分のどうしようもない愚かさ・・・。

 

震災後、友人の家に泊めてもらった私は、7時間の徒歩で疲れ果てていました。
うとうとしてると、友人は被災した名簿がニュースで流れるのをずっと見ていて、

私がどうしたの?と聞くと、
「知っている人がいないか探してるの」と余震が来る中も、寝ずにテレビをずっと見ていました。


私は、そこまで必死になる友人を傍目に「そうなんだぁ」とそこまで思うことのできない自分を微妙に思いながらも、眠りに落ちました。

翌日、父と住む神戸の自宅に帰ることが不可能だったためあきらめて、
友人宅の目の前だった伊丹空港から飛行機のキャンセル待ちをし、母のいる山口へ行きました。

そこから約1ヶ月半山口で過ごしました。
なので、震災直後の一番大変な時は、私は神戸から離れていました。

その時の私は、卒業を控え、必死で卒論を書きながら、母の仕事を時々手伝ったりしてました。


ある時、母の知り合いと震災の話になった時に、私の口から出てくるのは、
卒論で大変なことや、自分のことばかり。

そしてその知人から、


「君は神戸で被災したにも関わらず、現場で困っている人のことを考えないのか!?」

 

と叱咤されました。

 

めっちゃ恥ずかしく、穴があったら入りたい状態。
そして心がものすごく痛みました。
自己中心で未熟な私は、自分のことばかり。
他人の痛みも自分のように感じれない。。。
そんな自分が情けなくて。。。

 

今でもそのことを思い出すたびに、心がチクチクします。
震災を思い出すたびに、このころの自分が私自身を突き刺します。

あれから、18年。
少しは成長できたのだろうか?と、自問自答しています。

そして、もうすぐ東日本大震災から2年。
復興は、まだまだこれから。
あの時少しでも学んだことを活かすアクションを、

自分はしていってるのかと、また考えさせられています。

 

――――――――――――――――――

 

あれから25年。もう、震災時の年齢より長い年月が経ってしまいました。

あの時の学びを私は活かしているのだろうかと思うと、ままた心がチクチク痛みます。

 

しかし、その痛みがあったから、今の私が作られてきました。

そう思うと、いろんな感謝がこみ上げてきた今日なのでした。

 

 

 

 

 

 

 

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